堀江の街を語る上で欠かせないのは、そこに拠点を置いて正に街と共に生きてきた人達であることは間違いない。ずっと堀江の街を見続け、これからも堀江と共に歩いていく、そんな人達に幅広い確度からお話を聞いてみた。
週末ともなれば多くの人達で賑わいを見せる堀江だが、堀江の街の成り立ちは一体どういうものであったのだろうか。堀江が今のような形になる前から家具屋を営む尾上さんはこう語る。
昔、堀江は広大な湿地帯でした。江戸時代、そこに堀江川を開削し開発したのが堀江の始まりです。当時、たくさんの船付き場があって多くの商品が堀江から大阪中心に流れて行きました。船での流通で栄えていったわけです。日本全国から色んな物が堀江に集まってきました。長堀川の河岸は「材木浜」と呼ばれる程賑わいを見せました。その中で金物、木工、ふすま、らんま、など住宅用品の生産をする産業が生まれました。今日の堀江の家具の街の始まりはここにあったのです。もちろん住宅関連以外のものもたくさんありました。藍染の工場や三味線、琴なども作られていたんです。それらをみんな手押し車で買いに来るんです。畳やふすまなど重い物もありますから。それらをバラバラで買うんです。当時の借家は自分で畳などを買って配置しなければならなかったんです。
堀江に人々がどんどん集まるようになって、堀江にはたくさんの娯楽施設が生まれます。堀江は開発が遅れた地区でしたので、幕府は資金を開発するため市内では制限されていた娯楽が許可し商いをしやすくしたんです。相撲や能、文楽の興行、さらに舞妓や芸者のいる郭やお茶屋の営業も許可しました。堀江、新町という言葉はこの事を指しているのかもしれませんね。特に和光寺周辺は『あみだ池』と呼ばれ親しまれ、周辺は娯楽の中心でした。境内とその周辺は講釈の寄席・浄瑠璃の席・大弓や揚弓・あやつり芝居・軽業の見世物や物売りの店があり、2月の涅槃会に4月の灌仏会は特に賑やかだった。大坂相撲も堀江が発祥なんですよ。
有名なお寺の善光寺ってあるでしょ。あの寺の本尊は元々、堀江で拾ったものだったんですよ。本田善光という殿様が堀江の池の中から阿弥陀如来を拾って自分の故郷の現在の長野県飯田市に持って帰り、元善光寺に納め、その後現在の善光寺に遷座したんですよ。これにちなんで智善上人がこの場所こそ善光如来出現の地といってさっき話に出てきた堀江の和光寺を建立したです。和光寺にあるあみだ池はそれに由来してるわけです。ちなみに、なんでそんな所に阿弥陀如来があったかっていうと、その昔、仏教と神道が対立してた時代に仏教を嫌う勢力によって上町台あたりから海に捨てられたんです。それが流れ着いて堀江に着たんですね。おもしろいでしょ?



