堀江の歴史

堀江は大阪で唯一、商店街の若者が街を活性化した事例です。

水都大阪と言われるだけあって、昔から大阪は河川や水路が発達し、輸送には道路より水路が利用されていたとか。もちろん道頓堀川も輸送の大きな役割を担っていた。川周辺には輸送に便利だということで、木材屋や家具店が自然に増えていったようだ。そして、 1960年代の高度経済成長期、家を建てる人が増え、家具を買う人のラッシュが続いたという。売上は大きく伸び、堀江は全国有数の家具店街として栄えていったという。そんな堀江に危機が訪れたのは1980年代だった。時の流れとともに郊外型の大型家具店などが増え始め、これまでの値引き売りに力を入れていた家具店は、私たち「買い手」の価値基準の変化に気付かなかったのだ。家具をライフスタイルの一部としてとらえ、ファッション性や便利さを求めていた消費者のニーズが見えていなかったのだ。時の流れに乗り遅れた堀江は、日に日に売上を落とし、店をたたむケースも出てきたという。

商店街存亡の危機さえ感じ始めた商店主たちは1992年に『立花通活性化委員会』を発足大阪市の”商店街をバックアップしよう”という動きも手伝って、街を若返らせる作戦へと転じた。その年の冬に立花通りの愛称を新聞で公募。1,000通を越える応募の中から『Orange Street』という名前が決まった。それから委員会は、国内外の活気ある商店街や家具店街を視察してまわった。この時、委員の一人が訪れたイギリスのポートベローやカムデンロックのイメージが堀江の将来像に大きなインパクトを与えたという。この二都市はアンティーク家具の街として世界的に有名なのだそう。ここで行われた”アンティークのフリーマーケット”からヒントを得、Orange Streetでもイベントを開催できないかと考えた。アメリカ村からも近いという事で、若者をターゲットにしたフリーマーケットを提案。当時、Orange Streetに点在していた駐車場を活用し、試験的に行われた第一回のフリーマーケットでは2,000人を集め、大成功だったという。当日はジャズのストリートライブ、スタンプラリー、学生や若手アーティストによるライブペインティング、大道芸人の火を噴くパフォーマンスなど、さまざまなコンテンツをミックスさせていた。

このような委員会の努力が実り、1998年、トレンドリーダー・藤原ヒロシ(東京の有名DJ)氏がプロデュースする某カリスマショップ、shop Detail、Muse osaka、factory cafeなど、大阪での火付け役たちが次々とショップをオープンさせた。その後、A.P.C.をはじめ、東京系のテナントが続々と堀江に進出し始めたのだった。ショップ進出のラッシュは2000年後半から2001年前半。多いときには1ヶ月に10軒以上のペースで新店舗が登場していた。2003年現在でも、土地を争うようにショップやカフェが次々とオープンし、関西でも最も活気のある街へと変革を遂げた。最近では若者の街として完全にそのイメージを定着させ、かつての家具店も時代のニーズに合ったインテリアショップとして、街と一体になったのだ。家具店街のイメージこそ薄れたものの、Orange Streetの家具店商店主らの地道な努力があったからこそ、今日の堀江が誕生したといってもいいだろう。日々、変わり続ける堀江の街並み。これからも刺激的な新しい街として成長を続けていくだろう。